悪い王様を倒した後、どのように社会を立て直すべきか?

マルクス

 

中世ヨーロッパでは、王様だけが豊かに暮らし、国民が悲惨な思いをする時代がありました。

しかし、悪い王様を倒して、みんなのための社会を作ろうとしたところ、別の問題が生まれました。

それは「多数派の専制」です。

この記事では、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』で述べた「多数派の専制」について見ていきます。

王様の専制

中世ヨーロッパでは、王様による専制政治が行われていました。

 

専制政治とは、人々が王様に逆らえない状態です。

もし、国に逆らえば、刑務所に投獄されてしまうことさえあります。

この社会では、少数のお金持ちが幸せになり、大多数の国民が、貧しい思いをする可能性が高いです。

ミルは、「特権的少数派の政治ではなく、支配者の利益と国民の利益を両方とも考えた政治をするべき」だと主張しました。

少ない金持ちのための政治じゃなくて、みんなのための政治をしようということです。

この運動が進みんだことで、実際に民主政共和国が出来上がりました。

これでみんなのための政治ができると思われました。

しかし、次は別の問題が起きました。

それは、多数派による専制です。

多数派が少数派を抹殺するようになってしまったのです。

多数派の専制

多数派の専制というのは、多数派に逆らえない状態のことです。

みんなのための社会を作ろうとしていたのに

実際に出来上がったのは、人々がお互いに、観察と批判をし合う社会だったのです。

昔は「権力者の権力を制限するべきだ」とだけ考えていました。

「国民自身の権利を制限する必要性」とは、考えられていませんでした。

しかし、「王様がいなくなれば、みんなが幸せになる」わけでないことが分かったのです。

王様の専制も危険ですが、多数派の専制も危険です。

なぜなら、多数派が活発的に活動できる一方で、少数派が生きづらい社会になってしまうからです。

多数派は、自分の意見を少数派に押し付ける傾向があります。

多数派が少数派の言論の自由を封じてしまうのです。

個人の自由にさせておけば、個性が発展するかもしれません。

しかし、多数派は、個性の発展を食い止めるのです。

そして「社会の流儀に合う個性」へ、型にはめてしまうわけです。

ミルは、あらゆる性格が社会自体のひな形に合うように強制されてしまうのは、良くないと考えました。

たしかに、多数派に従わなくても、警察には捕まりません。

しかし、多数派からの専制は、人々の魂を奴隷化すると、ミルは言います。

洗脳されて、多数派の意見に従わされてる方が危険なわけです。

支配的意見や感情から、人々は守られる必要があるのです。

たしかに、多数派の意見に従わない人を、罰する法律はありません。

しかし、人々は、法的刑罰以外の手段によって、意見を押し付けようとする傾向があるのだと、ミルは指摘しました。

多様性を許さない社会は恐ろしいです。

多様性がある社会の方がいいと、ミルは言います。

そのため、習慣に反しているという理由だけで、他人を抑圧するのは、悪いことなのです。

習慣はふつう、なぜその習慣があるのかを、説明はしません。

理由を説明する必要はないと思われています。

そのため、人々が従っている暗黙の了解に対して、疑問を抱く人すらいません。

だから、習慣に反することは、難しいのです。

さらに、哲学者になったつもりになってる人は、他人の行動に口出しをしたがります。

彼らは、自分の望むとおりに誰もが行動すべきだ、という感情を持っているのです。

本人たちは、公平な倫理観で、物事を判断してると思いこんでいます。

 

しかし、ミルは、人々の判断基準なんて、結局「自分自身の好み」に過ぎないと言いました。

本人は、「自分は公平な気持ちで判断を下している」と信じたがります。

しかし、「なぜ、その意見が正しいのか」を説明できないのであれば

それは、「好み」が判断基準になってしまっているということなのです。

最後に

ミルは、個人と社会の発展のためには、「それぞれの生き方を認め合うこと」が必要だと主張しました。

お互いを監視し合うより、自分と違う生き方を許し合う方が、よりよい社会を作ることができるのです。

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